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住吉神社神紋_edited_edited.png

住吉神社の由来

​「住吉山医王寺」の時代

往古、住吉神社は、「住吉山医王寺」とも言われて、尊敬されていた。創立時は、神が先か、仏が先かは別として、神社仏閣には、神仏混交とも言える時代があって、共に助け合って布教に当ったと推測される。これは、神を奉じる豪族の庇護のもとで、多くの信者を守るために、大切なことだったのかもしれない。その神を山として敬い、山号を「住吉山」と称し、「医王寺」すなわち、大衆に医を施し、業を勧め、民衆の安定を図った所だったと思われる。
東方に鎮座する熱日高神社は、嘉暦より以前の延喜年間(西暦900年頃)に、祭祈されたと伝えられているが、この住吉神社の鎮座する郡山地区は、奈良京文化の中心地として栄えた所なのだから、住吉山医王寺も同じ時代に祭祈されていたとも考えられる。熱日高神社は、日高の国を治め、日高川流域を平定する神であり、住吉山医王寺は、産業を興し、医を施す民衆の為の神であった。
延喜年間から約400年を経過した後醍醐天皇の嘉暦の年までの間、平安の都から遠く離れていたこの郡山地区は、どのようなものであったのか。詳しい資料は無いが、このころの荘園政治の中に、麻績郷の名が見え、陸奥の国に向かう公達の往来があり、また源平時代の葛藤の中で、栄える者、滅びる者、錦を飾った騎馬武者が堂々と帰国する姿があったと想像される。

​「嘉暦明神」または「枯木明神」の時代

大正十五年に刊行された「伊具郡誌」によると、鎌倉時代の後醍醐天皇の御世である嘉暦(かれき)元年(一三二六年)三月二十九日に、攝津国(現在の大阪市)の住吉神社の御分霊を勧請したことから、正式に「住吉神社」の名前が使えることになったが、土地の人からは、「嘉暦明神」または「枯木神社」と呼ばれ、祭神も「上地廼雄命」と「中地廼雄命」を奉っていたと記述されている。
嘉暦年間頃、平安の都から遠く離れていたこの郡山地区は、荘園政治の中に、「麻績郷」の名が見え、陸奥の国に向かう公達の往来があり、また源平時代の葛藤の中で、栄える者、滅びる者、錦を飾った騎馬武者が堂々と帰国する姿があったと想像される。

​「本山派善光院」の時代

安永八年(1780年)に刊行された「風土記」によると、元禄十四年頃(1702年頃)に、藤尾大門の鬼越山東光院の修験者である不動院元真が、住吉山医王寺に、東光院の末院として「本山派善光院」を開院し、住吉社と薬師寺をその別当所とした。
そして、歴代の院主は、
・開院   不動院元真 (元禄十四年没)
・二代目  善光院宥真
・三代目  善光院真清 (明和五年没)
・四代目  善光院真応
・五代目  善光院文真
であったと記述されているが、場所的には、住吉神社の敷地内またはその隣接地であったと思われる。
しかし、一度、火災に逢っており、善光院と住吉神社の社殿および全ての財産を焼失してしまって、資料類が残されていない。
さらに、「風土記」によると、三代目善光院真清の代の正徳二年(一七一二年)には、社殿を再興して、「住吉神社」として村の鎮守となっている。
(東西15間、南北20間、参道30間、社は一間造り)
昭和五十四年の郡山遺跡の発掘調査では、総柱式の南面する建物跡が見つかり、複弁蓮華文軒丸瓦が出土して、本格的な瓦葺の建物が建立されていたことが分って、当時の住吉神社の盛隆とその信仰振りがうかがえる。
当時の枝野村には、刈子舟15、馬渡し舟2、大刈子舟1があり、笠松に御材木蔵、中島谷地には舟守屋敷が2軒あった。
また、泉田の真菰地内にある小梨家の歴代の墓所に、
・権僧都賢栄 没年不明
・権僧都了覚 没年不明
・権僧都宥秦 文化五年(一八〇八年)没
・法印源宥 嘉永元年(一八四八年)没
・法印養賢 文久二年(一八六二年)没
 とあり、代々、善光院の法印(または住吉神社 の別当)を勤めたことが伺える。

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